紙にスケッチやドローイングするようになって以来6-7年分の紙の山を破いて捨てた。もちろん全部スキャン済み。当初は「スキャンしたらただちに捨てる」がモットーだったのに、結局捨てられずにどっさりたまってしまった。
スキャンしてからPhotoshopで加筆したり加工したりしてるので、元の紙自体には残しておく意味はないとはいえ、やっぱ鉛筆やサインペンで描いた生のドローイングって、破り捨てるのはちょっと惜しかったりする。でも僕の場合、タブレットで描く代わりに描きやすい鉛筆で描くために一旦外に出したもの、あるいは、パソコンで描いていれば存在しなかった紙なのです。特に気に入ってるスケッチ以外の紙は全部捨てちゃう。
サインペンできれいに清書してスキャンしたような絵はいちばんとっておく価値を感じないのでまっ先に捨てました。それぞれの期間の代表的なものや特別に面白いものはとってあって、厚み10センチ弱くらいは残ってる。本当はもっと捨てたいけど、根性なしめー。
紙で残してあると、いろいろ面倒なことが派生する。「ファイルに綴じたくなる」→「ファイルに綴じるには紙のサイズを揃えたくなる」ってのもあるし、最も大きなデメリットは「残るものだからキレイにていねいに描きたくなる」。紙に書くのはアイディア出しの側面が大きいので、時間をかけて丁寧に描くのはほとんど時間の無駄。
ドローイングやスケッチは汚く乱暴に描いてあるほど、クリエイティブの種が存続する。キレイに清書されたアイディアスケッチは、その段階で凍結しており、何かアイディアを加える気になったり拡がったりしないものらしい、僕の経験では。
紙で残さない前提なら、紙の種類やサイズは自由。そのへんのいらない紙の裏で十分。紙の束って、本でも書類でもドローイングでも、余計に「大切なモノ」感が出ちゃうのが困る。最初から紙を溜めるのを避けていれば、大切なモノ感は出ずにすむ。
生の手描きの一枚だから本来は大切なものに思われるかもしれないけど、僕には「自分のラクガキの一枚一枚に価値を感じて保存しておこう」ってのがどうにも不健全に思えちゃうのです。ってか不健全だ!と思おうとしてます。 画家でもないのに「このドローイングを誰かほしがるかもしれない、もしかすると値打ちがあるかもしれない」って考えるのはものすごい不健全だと思います。スキャンデータは普通通りに幾重にもバックアップしてるので、「全部取っておく」という不健全さは変わらないですけどね。
数年前、すごいイラストレーターの人が、20年分だかのスケッチブックを丸ごと捨てたって話を読んだ。それにくらべりゃぜんぜん些細な規模。
っていうか、今まで捨てられなくて後生大事に取ってあったドローイングの山を、次から次へビリビリと破ってゴミ箱に放り込むのがこんなにキモチイイとは思わなかった。「オレは過去から解放されてる!」って実感。一種の決意みたいなもんで、キモチイイと感じるかどうかは個人差があると思うので、特におすすめはしませんけど。
ところで、何か必要があってその場で描いたラクガキを渡すと「おー!これ何十年後に100万円になってるかも」とか言うヤツが時々いるけど、真面目にムカつく!
3 件のコメント:
ムカつくのは
「今の俺の絵にはそんだけの価値がないんかい!」
と思うからですか?
私がYoshiiさんの走り書き?を手にしたら
同じことを言ってしまいそうだったもので。。。
ジャックさん
すいません、社交辞令的決まり文句の場合が多いと思うのでそういうのを真面目に受け止める必要もないと思うのですが、実際のところ、走り書きのラクガキメモにそんな値段がつくのは歴史に残る大巨匠くらいだろうし、そもそも絵は値上がりするものみたいに思われてますが、ほぼ100%の絵は値上がりしないし、没後には値下がりするものなんですよ。っていうか、購入した絵を手放すときに値段がつくことすら珍しいのです。そのへんをひっくるめて「軽く言ってくれるなよ〜〜(泣)」的なムカツキであります。すんまそん。
今ちょうど、なんでも鑑定団の再放送やってて、沢村一樹が持ってきた本物のピカソのサインのついでに描いたラクガキが、50万円ですって。ピカソでもそんなもんです。
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